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箏のもつ悩み

先日の演奏会の感想を、リコーダー奏者の吉嶺史晴先生がブログに連投してくださいました。先生にはいつもいつも考えさせられる言葉を頂いてありがたい!!の一言。そのブログ連投の中でも考えさせられたのが次のページ。常々私も考えて悩んでる事でもあり、なんだか肝に銘じなきゃなぁとおもった文章だったので引用させて頂きます。


☆☆☆吉嶺史晴のブログより 『光崎検校の「五段砧」』☆☆☆

光崎検校の「五段砧」はとてつもない強度を備えた音楽作品だ。
何故だろう?

光崎検校はその当時の「時代の空気」から完全に自由だったのだろうか?彼自身は果たしてバッハやベートーヴェンのような鼻っ柱の強さを備えていたのだろうか?詳しいことは僕のはかり知らないところだが、ひとつだけここに書いておきたいことがある。

多分、光崎検校は「筝」という楽器がどのような状況において、もっとも「筝」らしく鳴り響くかということを知っていたのだ。知っていただけではなく、それを極限まで推し進めようとしたのではないか。

光崎検校がやったのは簡単に三和音をつけてかたづけるというようなそんな態度からもっとも遠いところにあったのではないかと思う。

「筝」は弦が沢山あって、まるでピアノみたいな音を出すことが出来るけれど、それは「筝」の持つ本質とは全く関係がないのではないだろうか。ピアノでも出来るような表現であればピアノにやらせた方が良いはずだ。

ひとつの楽器が「鳴る」ように作曲する、というのは大変なことだ。

どんな楽器でも物理的に音は出るけれど、それは本当に鳴っているのではなく、ただなんとなく鳴っているようにみえるだけではないか。

その楽器が本当に「鳴っている」のか、「鳴っていない」のか、ということを突き詰めることなしに音楽を作るのはおかしなことだ。

楽器というのはとりあえず音が出てしまうだけに始末が悪い。たとえば「筝」のような楽器は中途半端にピアノみたいな和音が出てしまうだけに余計に始末が悪いのではないか。「筝」という楽器がピアノの代用品みたいなものであって良いはずがない。

優れた音楽には隙がない。
どんなにリラックスした時間が流れていようともそこには、そのリラックスした感じが必然的なものとしてそこにあると感じられる。それが優れた音楽の持つ特質ではないか。

僕自身はたとえば筝という楽器で西洋風の三和音が簡単に出て来るような音楽の在り方にもろてを上げて賛同することが出来ない。そこでは僕の耳は「筝」という楽器がまるでピアノの代用品みたいに聴こえてしまうからだ。

「筝」ならば「筝」にしか出来ない音楽があるはずだ。
「リコーダー」ならば「リコーダー」にしか出来ないような音楽がなければならない。

楽器法とは、そして管弦楽法とはすべからくそのようなものではなかったか。

吉嶺先生のおっしゃることは常々私が考えてる私の悩みでもあります。


私が弾く楽器"箏"の長所でもあり弱点もあるポイント。
いかようにでも調弦がとれるし、絃がいっぱいあるので日本製ハープのような使われ方をすること。あくがないのでいろんな楽器と合わせることは可能だけれども、バッキング中心の伴奏楽器になってしまうこと。和音をだすことはできるけれど、それは本来の箏の手とは全く違った技術をようすること、などなど。


テクニカルな問題であると同時に、それは曲をチョイスする段階でも悩みどころとなります。
私達が演奏をする場合、必ず言われるのは「皆が知ってるわかりやすい曲を演奏してください」というリクエスト。多分邦楽は洋楽より曲の絶対数が少なく、また一般の人が知ってる曲が圧倒的に少ない為だと思います。一般の方が知ってるのは「春の海」か「六段」。私達演奏家としては聞いてる人に喜んでもらいたいので、箏を知らない人が聞いても馴染みやすい曲を入れることは構わないのだけれども、それが箏の魅力を最大限引き出すかどうかというのはまた全然別な話。そういった曲の大体がディアトニックで作る感じになってしまうのも箏の響きを抑えてしまう大きな要因。。

なのかな。
という事を頭にいれつつ、私はまたこれから自分がすべきこと、自分がこれから弾き続けるものを考えていかなきゃなと思っているところなので、演奏をしてはその度に吉嶺先生にはヒントをもらおうと思います(*´艸`*)
先生、本当に有難うございます!!!

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